命いのち

この国には教育が必要だと思う。


みんな知らなさすぎる、見えていない事が多すぎる。

見えている人はいるのだが、既存のシステムの上に立つと、ひょっとしたら、命の軸を中心に思考する事(意思)を

どこかに落としてしまった

の様に思う。



「ここ」からの教育を、今の学校でやろうとすると無理がある。


教師も、子どもたちも飼い慣らされてしまっている。


飼い慣らすとは、言葉が悪いように聞こえるが、この言葉がほんに的を獲ることを知って欲しい。

教師は、文部科学省と世間の風評に流される学校現場に、

子どもたちは、生きるとは何なのかをよく分かっていない学校教師の常識とやらに慣らされてしまっている。

そこから逸脱することは、そこから逸脱させて子を振舞わせることは、今の学校では許されないようになっている。


ぼくが言うのだから信じて欲しい。なんでもそうだけど10年見続けたら、そこの動きはある程度解る。

ぼくはあの場所に11年と半年いた。

「こどもは規範を(作り出された常識)はみ出すことを許されない、大人(先生)ははみ出したこどもを許すことをゆるされない。」

ぼくが見てきた学校は、すべて、基本はそう云ふ規範をしいていた。




識が通じない。(『識』というのは、人が一人ひとり持つ目の前の何かを図る『物差し』のようなもの。)


これが今の学校という場の常識。



ぼく熊至朗は變なのだが、ゐの持つ識を傳るべく、教師最後の年に、持てる力と知識を全て注いで、

自らの識を伝えようと必死に振る舞った。

最後の一年はほんに必至だった。

目の前の子たちはそれに応えてくれた。志賀中学校での話。彼らは今年、高校1年生になる。

公立学校という日本という国の教育現場において、大人の常識が邪魔をすることがある、

たとへば、

授業中に「時間というものは無限にありますよ」「それは私(あなた)に命がある限り永久的に連続的に与えられていて、その時間は自分(あなた)に都合のいいように自由に使えることになっているんだよ」と本氣に伝えた。、、すると彼らは目をキラキラさせて真剣に聞いている。

次の瞬間

チャイムが鳴って、「はい、休み時間〜」ってなる。


ただ、ぼくは、立場上あの子たちのあの時の五十分を与えられたことに、唯唯、感謝するしかない。


ありがとう。


時間の区切りをこちらが設けているのも教育する側の観点からすると、もう少し融通をほしい。

たとへば、「次の休み時間は、30分にします!」とか、担任の先生が、その教室の自分の生徒の時間をある程度裁量

できれば、子どもはもう少し聞きたかったところを聞きに來る余裕が生まれる。


10ぷんの休み時間では、次の教科の準備をするだけで精一杯



子どもは、学校の中では、1時間目から6時間目まである、当人には見えないところで作られたカリキュラムとやらで構成された時間割の世界で過ごすことになり、つまらない(全てがつまらない訳ではないが、そう!だから先生は毎日準備が大変で、モノすごい能力が必要なのだが…。)

授業と授業の間に十分の休憩と午前4つの教科をこなして、お昼を食べるあと休憩に四十分、この反復が身に付いていて、学校にいる間は時間をコントロールされていることは見えない(当人が自覚できない)窮屈を強いられているので、基本、何をしてもよい「休み時間」というのは子どもにとっても貴重な時間。



授業中にいくら真剣な話をして、教室の35の生命が盛んになったとしても、チャイムが鳴ったら、はい終わり。



与えられた休み時間、

自分の好きな遊びを見つけて、1の生命がそれに没頭していても、チャイムが鳴ったら、はい終わり。


時間とは、本來、自分でつくるもの

他人に、与えられるものでは、決してない。

もっと大いなる場所から与えられているものという認識はあっても、

既存の学校という場所ではそうはいかない、


その理由は簡単

問屋がいるからである。

「そうは問屋が卸さない」ってことが、教育という現場で平氣でなされている

そのことに氣付いている人は

ぼくの知る限り、いない。


授業がはじまる時間に自分の席に座っていなければ、常識を守れない生徒だと叱られる。

ちゃんとしている学校ほど、準備も含めての休み時間は、非常に慌ただしいものとなる。

教師の立場にいれば、叱りたくないのに叱る(なければならない)場面も生まれる。

さらに

教師もまた、チャイムという時間で休む間もなく動き続けるので、じっとしている時間などない。

今の学校現場は教師と子どもにとって窮屈で仕方がない。



『時間』

それは、

自分というこの命の軸を中心に、連続していること。その一瞬一瞬が連続している事。ぼくはこれを子どもに傳たい。

この命の軸とは、かけがえのないものであり、

この命に与えられた「素晴らしき人生」

なのだ


ぼくは命を引受ける寺小屋「まなびや」をつくる

IMG_0664
IMG_0664