ヴォルテール・バシャール

個人個人によって、またその時その時によって、違う考え方が役に立つことがある。 それが、うまくいかなくなるのは違う考え方をしている人を受け入れなくなるとき。 この文明の中で混乱が起きてきたのは、皆が違う見方をしているからではありません。 違う見方をしている人達が、我の見るものだけが一番正しいと思ってきたからです。 バシャール



これはぼくにとっては氣付きの多い言葉。

このことばとの出会いと、バシャールの言葉にあらわれた”観る世界”の實際を心にいつも留めておこうと

おもう。

大切にしたいのは、

個人個人の交際の中で、「(わたしが)こう振る舞う」のは、喧嘩もあって、憎むことも羨むこともあり、仲良くもなって、

それは人間らしくてよい、と思う。


大いに自分が正しいと思うて生きればよい


と。



しかし、文明のなかに混乱を見たときや、地球規模の問題にしている場合には、

自分が正しいと思って為してきた事の問題を明らかに見て(あきらめて)

大いに反省しないと


その行為は、この地球の生命を謳歌するための一助になれているのかどうか、

為してきたことが無駄であったと肩を落とすことはない。

(大いに反省するべきは、

多くの我以外の命を蔑ろにしてきたことや、

見えないものを見ようとせずに、見えるものだけその美しさに拘って真の美しさを失い続けていることや、

それが自分の生命の飛躍を止めている行為であったといふ点。

この点については改めないと、

次の時代が來るまえに

もう暮らしを続けることすら困難になるその前に。)


たましいのレベルでネットワークを形成しているぼくらが、

地球の裏側に住む人と””ネット””を通じて瞬時に繋がれるネットワークを、文明とともに発明し、日常にまでした僕らが、

この反省をせずして、

どうして人類の歴史を終えることができようか。


肩を落とす暇があったらまえに進め。


神や仏の存在があるとして、

期待さるるは

求めらるるは

人類の

変革

これをほんに要求される時に生まれ生きることを今許されている。


目の前のいのちと戦争をする時代は終わらせないと。


ほんに氣付くいま、

成すべきは、

「自分の持てるすべて」を

目の前の我ではない他のいのちのために

投げ出せるかどうか。


もちろん、その他のいのち中に我を入れてもかまわないのですよ。


ものや人や、地位や名誉や、お金や土地は

持っては死ねない。

残したところで、

ほんに自分の

意に沿うた

遣い方を残された命がするか、

どうかも

判らない。

なら、

「よろんで手放そう。」


悦んで。


悦ぶことが、よろこんで手放すことができない。それは、

「この我命」に固執するがため。

否、

命はもともと一つなので、固執しているのは「我」

我に固執する。

これが苦しみの元凶

さとりを遠ざけるもの。


けれど

そういう人たち(我が命、我が〇〇に固執する者ら)を

お釈迦さまは「凡人(ぼんぶ)」とよび

どうしようもないその人たちを救って救って

掬い抜く生涯を。


その並ではない

釈尊の教え。


南無阿弥陀仏といふ。

手放した瞬間に

変わる。


一度手離したことがあるから。

僕にはわかる。


仕事を手放し、

家族を手放し、

親を手放し

子を手放し、

友を手放し、

お金を所有することを手放す。


、、もう手放せるものは何も無い

そうする人間が

いま、一人。また一人と現れている。


「ある」ということに対する感謝。


手放したのにある。


ありがとうございます。




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